杜の木漏れ日

秋田県能代市で作庭管理を行う福岡造園のブログです。 日々の仕事や活動等の最新情報を載せていきます。

おおらか

おおらか (1)

下見で訪れた時に見つけた清水。
水音に誘われて行ってみると、こんな素敵な所があった。

おおらか (3)

清水は、集落の中を、右に左に蛇行する。
家々の裏庭に面したこの流れは、昔から、この水をくんだり野菜を洗ったりと、生活の中で使われてきたのだろう。
あちらへこちらへと曲がりながら、山の恩恵をみんなにおすそ分けしている。
清水だから冷たいけど、そんな温かみを感じる流れだった。

この清水は家々の境界になっているようだが、こんな、ゆるやか境というのもいい。
都会は、杓子定規にまっすぐな線を引くけれど、田舎には、境であって境でないような、こんなおおらかな境がある。
人が決めた境と言うよりも、自然が決めてくれた境。
そんな自然の流れを壊さずに、無理やり人工的な水路に変えずに、山の恩恵をみんなで分かち合っているような感がある。

「杓子定規」という言葉は、お役所仕事などに対してよく使われるが、辞書引きしてみたら、
「曲がっている杓子を定規代わりにすること。正しくない定規ではかること。すべてのことを一つの標準や規則に当てはめて処置しようとする、融通のきかないやり方や態度。」
などと出てきた。
ということは、「杓子定規にまっすぐな線を引く」という表現はおかしいか。

でも、この曲がりくねる流れの境は、とても理に適っている。
ここでは、まっすぐなことが杓子定規で、曲がっていることのほうが正しい。
自然界には、直線の物など何一つないからだ。
それが自然の法であり、自然の摂理。
そして、この曲がりくねる境は融通が利いていないかと言えば、この流れは山の雪融け水を通しているから、最も融通が利いている。

曲がっているからこそ、土地が安定し、人も動植物も安心して住める。
曲がりこそが自然であり、ここでは、そんな自然の理が定規になっている。
そして、住む人たちに、それを受け入れるおおらかさがある。
いや、受け入れているというよりも、自然と暮らすことが当たり前で、そんなことすら意識していないのではないか。

都会では、細かな境があるからいさかいが多い。
土地は財産だから、境は大切。
でも、その境に関係なく、土も水も空気もみな繋がっていて、人は、そんな繋がりの中で生きている。
こんな意識を共有できれば、街路樹の苦情なども、少しは減るだろう。

おおらか (2)

ここでは、曲がりくねる清水の上を、大きな木々の枝が左右に行き交う。
そして、その木蔭は分け隔てなく、境の両側に舞い降りる。
落ち葉も然り、そんなお陰さまやお互いさまの中で、この地の人たちは交流しているのだろう。

物事の見分けや善悪などの判別を、「見境」と言う。
この、あってないような、自然の境を尊重する人たちは、優れた見境や見識を持っているということだ。

景観は、意識の鏡。
優れた景観は、そこに住む人の意識をそのまま映す。
おおらかな人たちが暮らすおおらかな流れは、とても美しかった。

いちご

itigo (1)

なにかと慌ただしくて、しばらくここに座ることもなかった。
深々と腰掛けて、思い切り深呼吸。
目を閉じると、鳥のさえずりが聴こえてくる。
こんな、日曜の朝の静けさは、本当に久しぶりだ。

itigo (2)

目を開けて庭に目をやると、はて、寄り添う石が見えない。
明るいうちは家に居ないから、ぜんぜん気付かなかった。

itigo (3)

ということで、おもむろに草引きしていると、お隣さんが回覧板を持ってきた。
その足で次のお宅まで回しに行くと、畑にイチゴがなっていた。
そういえば、うちのイチゴはどうなってるだろう?

itigo (4)

なってるなってる。
家人にも、持っていってあげるべか。

因果応報

因果応報。
人生の専門書をめくっていたら、こんな言葉が出てきた。
どんな意味かと言うと、

人は善い行いをすれば善い報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある。
あるいは、
前世での行為の結果として現在の幸不幸があり、現世での行為の結果として来世に幸不幸が生じる。

のだそうだ。

あまり使う機会はないが、これは仏教語。
一応、うちは禅宗だから覚えておきたい。


この言葉、一般的に、あまり良い意味には使われないようだが、仏教的には良いこと悪いことの両面がある。
類義語を見ると、悪い方に取れば「自業自得」や「悪因悪果」。
良い方に取ると、「善因善果」とか「福因福果」。

人生の中では、良かれと思ってやったことでも結果が悪い方に出ることがあるが、そんな時は、運が悪かったりタイミングが合わなかったり、機が熟していなかったりということもあるだろう。
でもそれも、「災い転じて福となす」とか「怪我の功名」ということもあるから、自分の行為が正しければ、いつかは吉に変わっていく。
あるいは、自分の行為が良くないことで、他者を傷付けたり迷惑をかけていると感じたら、気付いた時にやめて、善行に変える。
そうなれば、その善行が報われて、よいことが返ってくるのだろう。

これが、前世での行為の結果となると、自分の前世が誰であるのかもわからないし、どうすることもできない。
できることといえば、神棚や仏壇に手を合わせて祈ってあげることぐらいか。
ただ、現世での自分の行為が来世の不幸につながるのであれば、それは防ぐことができるだろう。

生きている間に善いことをたくさん行えば、来世の自分や自分の子孫が幸せになれる。
人間だから、良いことばかりではない。
でも、一つ悪いことがあったら二つ善いことをすれば、自分の人生が終わる頃には、善い行いの方が勝っている。
そうなれば、幸せな最期を迎えられるだろうし、来世もまた、幸せになれるのではないか。
来世があるかどうかもわからないが、少なくとも、自分が幸せな最期を迎えられれば、家族も嬉しいだろう。
自分の因果は、後に続く人たちに残されていくのだから。

悪い方に行く時には誘いがある。
麻薬のように、それが自分にとっては気持ちの良いことであっても、社会的には許されることではない。
麻薬だけに、魔がさしてしまうのかもしれないが、酒や煙草も然り、少量であれば薬になっても、度を超すと体を悪くする。
これもまた、因果応報ということになるだろう。

ただ、自分が強い意志を持てば、そうした悪への誘惑を断ち切り、善い方向に進むことはできる。
この人生の専門書には「為せば成る、為さねば成らぬ何事も」という言葉もあったが、これは、中学の時の先生がよく言っていた。
やろうと思えばできるが、思わなければできない。
思っただけではできないが、やる気で行動すればできる。
それが困難なことでも、諦めずに向かえば必ず叶う。
そして、その為す目的は、自分の欲求を満たすことではなく、世のため人のためになることでありたい。

たしか先生は、そんなことを言われていた。
これを座右の銘にする人は多いが、為すことの目的はやはり善行で、それが世の中のためになれば、巡り巡って自分に善いことが還ってくるということだろう。

自分の人生がいつ終わりを迎えるのかはわからないが、できれば、幸せな結末でありたいとは思う。
来世があるのかもわからないが、あるのであれば、その世でも幸せに暮らしたいと願う。
もし、今の自分の行いが、前世で迷惑をかけた方々への供養や償いになり、前世の自分がそれで浮かばれることがあるのであれば、そのためにも、善行を重ねてあげたい。
きっとそれが、現世を生きる自分にとっての徳となり、人間としての成長に繋がるのだろう。

因果応報、福岡だけに、『福因福果』でありたい。

yukiaizaki (2)
幸せの黄色い花

草取り

kusatori (1)

雨降って緑深まる。
気が付いたら、あっという間に我が家の庭も草の海。
忙しすぎたこともあるけれど、草の成長もまた、負けじと慌ただしい。

今日は、子供たちの送迎も6時半には終了。
まだ少し元気があるから、暗くなるまでの間、少しだけ頑張ることにした。

kusatori (2)

猫の額だから、ばばばっとやって、10分で終わり。
「草取りは『苦悟り』」と言ったお坊さんがいたが、このわずかな時間でも無心になれるから、そんな時間はありがたい。
でも、丁寧に取ろう、全部取ろうと思うと、草取りは苦になる。
草と戦うつもりは毛頭ないので、根ごと引き抜くのではなく、植えた草花に障る所だけをサッと刈り取る。
こんな緩い草取りだから、そんなに苦にもならない。

kusatori (3)

ここはあまり手を付けていないが、こんなふうに、混然と、繚乱している感じも好きだ。
しかも、ほとんどが、ここの先住草。
もともとあった草と植えた草、その後から生えてきた草が共生する風景って、なんかいいじゃない。
そんな風情を目指しているのが、この猫の額でもある。

kusatori (4)

このツユクサも、後から生えてきたもの。
花が咲くのが楽しみだ。

kusatori.jpg

一仕事にもならない仕事を終えて腰を伸ばしていたら、雑な草取りをじっと見られていた。
女の子だから、花畑に居ても様になるな。
猫の手を借りたいほど生えてきたら、今度は手伝ってもらうべか。

時が解決する

yuri.jpg

昔々の話。
不惑の頃、家族4人が同時に入院するということがあった。
ちょうどその頃に事務所も焼けて、道具も車も灰になった。
それでも仕事だけはあって、3軒の病院に通いながら、3歳の子どもの世話と、まだ仕事ができない見習い二人の面倒を見ていた。
でもやっぱり限界が来て、子どもを実家に預けることになった。
駅に迎えに来てくれた義母に子どもを託し、遠ざかる電車の中で泣きながら父を呼ぶわが子の声は、今でも耳に焼き付いている。
生きてきて、あんなに辛いことは無かった。

家のことで現場に出られないと、仕事もどんどん遅れていく。
まだ伺えないことを施主さんに謝りに回ると、
「大変だな。でも頑張って乗り切れ。必ず時間が解決してくれる。」
そんなふうに声を掛けてくださる方がいた。
直面している時は、本当にそんな日が来るのかと思っていたが、その通りになった。
時間とは、なんとありがたいものだと思った。

その後も家族が入院することはあり、10年経っても火事の復興は終わらないが、絶望の淵にいたあの時ほどのことは無い。
そして、あの時泣き叫んだ長女や、あの時生まれた次女が成長し、家のことをやるようになってきた。
時間は本当に、いろんなことを解決し、人を強くしてくれる。

などと、この間、この言葉を掛けてくれた方とお会いする機会があって、あの時のことを思い出した。
そんな言葉を掛けられるということは、ご自分がそんな経験をされてきたというこだろう。
なんともありがたい言葉を掛けていただいたと、今でも感謝している。


◇苦しい時代だったけれど、数年後、その年に手掛けた庭が、地元紙や専門誌で紹介された。
絶望の淵に居ても、這い上がる希望だけは持っていた。
大変な時こそ、いい仕事をしなければならないと思っていた。
そんなことが、必ず後の信用になる。
今の糧より、未来の実に掛けた。

そして、この不惑の年に、街路樹の活動を始めた。
時間は掛かったけれど、思いは叶った。
誰もが無理だと言っていたことが実現した。
これも、時間が解決してくれた。

人生の半分を生きてきて、いろんな人に助けてもらった。
解決しなければならないことが起こるのは苦難だけれど、乗り越えようと動かなければ、時間も人も助けてくれない。

「天は自ら助くる者を助く」
人に頼らず自分自身で努力する者には、天が助け、幸福をもたらすのだそうだ。
時間とはきっと、「天」のことだろう。
天に助けてもらえる人でいられるよう、これからも懸命に生きるのみ。