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戯言

功徳

お寺で達磨像周りの造園をした際、達磨大師について調べてみた。
達磨で思い浮かべるものに少林寺拳法があるが、達磨はインドから中国に初めて禅宗を伝えた人で、少林寺では壁に向かって9年間座禅を組んだ。

多々ある逸話で興味を引いたのは、達磨が中国に渡った際に、時の皇帝と会談した話。
仏教に理解のある皇帝は、数多の寺を建立したり僧侶の面倒を見るなど、自身が仏教の普及に尽力してきたことを達磨に話し、「自分にはどんな功徳があるだろうか?」と訊いた。
この時、達磨は即座に「無功徳」と切り捨てたため、皇帝はたいそう機嫌を損ねたという。
なぜ、仏教のために功績を残した皇帝は「無功徳」なのか。
それは、功徳を得たいと思う心は煩悩で、煩悩で行うことには功徳は無いということだった。

ここで「功徳」という言葉を調べてみると、「功徳(くどく)」には、「神仏の恵みや御利益」という意味がある。
「善因善果」という言葉があるが、皇帝は自身が善行をしてきたことに対して、これからどんな善いことが待っているのかと訊いたのだろう。
そこには、行いに対しての報奨や見返りを求める欲があり、欲という煩悩があるうちは仏道の悟りなど開けないということを、達磨は言いたかったのかもしれない。

この逸話を読んだ時、以前に同業と話した時のことを思い出した。
地元で公共樹木の改善活動を行っていることを話し、行政の理解を得るために先進地に出掛けて学び、それを地元に還元したら街路樹のブツ切りが無くなったと言うと驚いていた。
同業は、そうした活動のほとんどをボランティアで行ってきたことに対して、無償の行為には何かご利益があるのかと訊いてきた。
「街の木が良くなり、ふるさとが美しくなり、街に適正な緑化管理の方針と体制ができる。それが一番のご利益で、自身が目指していること。そんな中で、めぐりめぐって自分にもいいことがある・・・かもしれない。」
と答えると、
見返りの確証が無いことに対して、客である役所の機嫌を損ねて仕事の受注に影響が出たり、業界で孤立するかもしれないリスクがある中で、無償の行動をすることには躊躇する。とのことだった。
気持ちはわかる。
わかるけれども、その壁を超えない限り、いつまで経ってもあなたの街の緑は良くならないよ。
その時は、そんなことを言ったように思う。

話変わって、昨日は、市役所の近くで仕事だった。
役所の前を通ると、新植の桜の葉が萎れていた。
水をあげたい気持ちにかられつつも、今から仕事だし、役所もまだ開いていない。
それでも、一服や昼休みには役所に行けるし、バケツを借りれば水をやることもできる。
ただ、この日は社名入りの作業衣を着ていて、市民ボランティアの認定証も持参していなかった。
これまでの経験から、それが善意の指摘でも、相手が初見の職員である時など、業者が営業行為や営業妨害をしにきたと誤解される。
そうしたことがとても面倒でわずらわしく、1,2分で行ける役所に足が向かなかった。

そんな中で、一服中、桜が萎れていることを施主さんに話した。
すると、驚いたことに、おもむろにジョウロを持ち、水をあげに行かれた。
まるで、自分の庭の木草に水をやるように、それが日課であるかのように、とても自然な行為だった。
こんな素晴らしい市民がいることに驚きつつ、植木屋ができないことをやってくれたことに感謝しつつ、植木屋である自分ができなかったことを恥じた。

同業に壁を越えろと説いた自分が、体裁を気にし、壁を越えられなかった。
見返りも体裁も煩悩。
そんなことを気にせず、ただそこにある木の命のために水をあげる。
邪念の無いこうした行為こそが功徳なのだろう。
そんなことを教えられた思いがして、役所に出向き、桜に水をあげた市民がいることを知らせて、水やりのお願いをしてきた。

お寺で仕事ができたおかげで達磨さんを知り、功徳の意味を知り、功徳の心で奉仕をする市民の存在を知った。

くしくも今日は誕生日。
これからの人生にとって、とても善いことを学んだ。

daruma (3)
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