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ふるさと

あいたの浦を探して


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富根小学校の校歌の一番に出てくる「あいたの浦」。
船上人が「高き印」と仰いだこの場所がどこなのかを調べてみると、「あいた」は『顎田』と書いて「あぎた」とも読み、「秋田」の古名だった。
「浦」は「海」だから、「あいたの浦」は『秋田の海』ということになるが、「顎田の浦」は雄物川河口周辺の秋田湾のことだとする記述もある。
「顎田」は能代の古名である『渟代』と共に日本書記に登場するから『渟代の浦』でもよさそうだが、そこは広い意味で「あいたの浦」としたのだろうか。

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興味深いのは、『顎田の浦神(あぎたのうらのかみ)』という神様がいて、それが同じ二ツ井町の七座神社のことであるとの記述が秋田県神社庁のサイトにある。

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実際、七座神社に出掛けてみると、境内の石碑には確かに『顎田浦神』という名前があり、阿倍比羅夫が北方遠征をした時のことが記されていた。
なぜ内陸部の七座神社が「浦(海)」なのかという疑問も湧くが、富根と小繋(七座)という近い地域での関連を考えると、校歌の「あいたの浦」はこの七座神社の由緒から来ているのかもしれない。

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ただ、この「顎田の浦神」は、同じく神社庁のサイトにある『古四王神社(秋田市)』の社伝によると、
この地は昔「顎田村」と呼ばれていて、「大彦命が北陸巡撫の際、我が北門の鎮護として武甕槌命を奉祀し、齶田浦神(あぎたのうらのかみ)と称した」とある。

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先日、古四王神社を訪ねたところ、やはりそうした由緒が看板に記されていた。
古四王神社のWikipediaを見ると、一説として、この齶田浦神は『蝦夷が信仰した地主神または海洋神』とする記述もあり、「顎田」が秋田の古名で、古四王神社の周辺が「顎田村」なのであれば、「顎田の浦」はこの辺りの海で、「齶田浦神」もまた、この地の神だとするのが自然だとは思う。

阿倍比羅夫が北征した当時は、顎田も渟代も津軽も北海道も蝦夷。
津軽や北海道の蝦夷までが信仰していたかは別として、齶田浦神は、顎田や渟代などの地方では土地の神として信仰されていたのかもしれない。

富根小学校の校歌ができたのは昭和初期で、富根村の時代。
まだ二ツ井町にもなっていない時に、村外の能代の海から見た茂谷山を歌う作詞者の視野の広さに驚いていた。
「あいたの浦」の正確な場所や齶田浦神のことは別にして、今回、この地名が日本書記の時代の呼び名であることを知り、母校の校歌の奥深さに触れた思い。

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