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ふるさと

顎田の浦と顎田浦神(資料編)

富根分館報に寄稿した『天そそり立つ茂谷山を探して』という拙文は6月に書いたもので、「顎田の浦(あいたの浦)」という地名と「顎田浦神」という神の名が七座神社の石碑に刻まれていて、「顎田浦神」は七座神社のことだったというところで終わっている。
その後さらに調べたところ、この「顎田浦神」を元とする神社は秋田市にもあることがわかり、7月28日のブログに書いた。
今回は、その後にわかったことなどを資料としてここに残しておきたいと思う。

私の今の関心は、「顎田の浦」とは具体的に何処を差し、「顎田浦神」とはどんな神で、どのあたりの地域で信仰されていたのかということ。
顎田浦神を祀っていたとされる神社は、今のところ、秋田市の古四王神社と能代市二ツ井町の七座神社で、二つの神社は658年の阿倍比羅夫来航以前からあり、古四王神社の社伝では、崇神天皇の時代に、四道将軍の大彦命が蝦夷平定のために派遣され、北門の鎮護のために武甕槌神(たけみかづち)を齶田浦神と称して祀ったとある。
阿倍比羅夫はその後に大彦命と同様の命を受けて北方遠征を行うが、大彦命は比羅夫の先祖であったことから、神社に大彦命も祀り、古四王神社としたとのこと。
比羅夫が顎田の浦に軍船180隻で来航した際、それに慄いた土地の首長の「恩荷」が「顎田浦神に誓って抵抗しない」と言ったことが日本書記に出てくるが、比羅夫がそれを信用したのも、齶田浦神が自身の先祖である大彦命が祀った神であったからだろう。
日本書記に記されたこの比羅夫と恩荷のやり取りは七座神社の由緒にもあり、伝承によれば、比羅夫は米代川を上って七座に来ている。

なぜ、秋田と二ツ井に同じ伝承があるのか、阿倍比羅夫が関わる神社は他にもあるが、その中にも顎田浦神を祀っていた神社はあるのか。
ネットでの調べに限界を感じ、今度は文献から探ってみようと図書館を訪れた。
下記に、顎田の浦と顎田浦神に関する記述を書き出してみる。


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①二ツ井町史(昭和52年刊 二ツ井町町史編さん委員会)
第2章 古代の郷土 第三節 「阿倍比羅夫」
阿倍比羅夫の秋田来航に際して顎田の酋長が降伏を申し入れ、「顎田の浦神に誓って忠誠を尽くす」と述べたことが出てくる。
続いて、
「顎田の浦とは何処だろう?或いは土崎付近、或いは男鹿、或いは渟代等いろいろ説をなすものもあるも、酋長が男鹿付近の恩荷であるところからみても、男鹿浦(船川脇本辺)であろう。それは、男鹿浦の外観が顎(アギト)の形に似てるところからも顎田と呼んだものと解する。」とあり、その翌年に再征した比羅夫は、「米代川沿岸の小賊を平定しつつ我が地方も通過しているのである。その節、仁鮒の酋長ウポナは降伏したが、切石の酋長シリベシは頑強に抵抗し、遂に敗れて蝦夷地に逃げ落ちたと伝えられる。また比羅夫は七座では船一隻と五色の綵帛を献して顎田の浦の神を祀ったという。」と記している。

②二ツ井町史稿№18 高岩山・七座山とその周辺(平成10年刊 二ツ井町町史編さん委員会監修) 
「七座神社の由来」
前述の二ツ井町史にあるように、顎田の酋長が阿倍比羅夫に降伏を申し入れた際に「顎田の浦神に誓って」と言ったことについて、「その顎田の神といふのは即ちこの七座の天神のことを言ったのである」と述べている。
またこの由来の中では、七座の天神は菅原道真公を祀った天満天神ではなく、道真公より千年も前からここに祀られており、「秋田の神、又浦の神ととなへてこの地方の守神として祀りつかひたのである」とあり、創建から七百余年の後に阿倍比羅夫が訪れて、当時の蝦夷の酋長が「顎田の浦神に誓って」と言うことに至る。
そして、この七座神社の縁起については、「綴子村の神宮寺の武内と言う山伏」
が、「明和3年に言ひ伝えをかき集めてこの神社の縁起を作った」とある。また、七座神社の由来については、「大正15年」に、「北秋田郡教育研究会発行の北秋田の歴史児童読物による」とあり、縁起については、「綴子村の神官、元神宮寺竹内家所蔵のものの写しによったとされる」とある。(注 文中の「武内」と「竹内」は文脈から見て同じものと思われる)
阿倍比羅夫の北征について、日本書記では二ツ井や綴子等、内陸部に侵攻したことは記されておらず、七座神社が顎田の浦神で、比羅夫が七座や綴子に来たことは、この、「綴子村の神宮寺の武内と言う山伏」が唱えた説ではないかと思う。
このことは七座神社のウィキペディアにも記されていて、
「阿部比羅夫がこの地に到達したという伝説は、江戸時代この七座神社の神主が唱えた。斉明天皇5年(659年)に阿部比羅夫は飽田(秋田)や渟代(能代)、肉入籠(ししりこ)に到るが、このししりこを秋田県北秋田市綴子(つづれこ)だという説を唱えたのは、般若院英泉であった。彼は、阿部比羅夫は米代川をさかのぼり、そして、この神社を創建したという説を唱えた。」とある。
この、般若院英泉は綴子神社の先祖であり、ウィキペディアでは、
「1764年には、七座神社で近辺の宗教家を集め7日間にわたって祈祷法令を行った。そこで『七座山天神縁起』を記す。これは七座山を天神7代が鎮座する聖地と解釈し、また、日本書紀に記述される阿倍比羅夫が至った地の「肉入籠(ししりこ)」を綴子と解釈し、阿倍比羅夫は七座神社を創設したとした。英泉はこれにより、七座神社を伊勢神宮に匹敵する聖地であるとした。」としている。
二ツ井町史の七座関連の記述はおそらく、この般若院英泉の縁起を参考にしていると思われる。


③鷹巣町史(昭和63年刊 鷹巣町町史編さん委員会)
第二章 大和時代 第一節 大和時代の動き (2)奈良時代の郷土 
「日本書記斉明記によれば、顎田のエミシ恩荷は」阿倍比羅夫に対して、自分たちが弓矢を持っていることを「けものをとるため」として、もし比羅夫側に弓矢を引くようなことがあれば、「顎田の浦の大神(七座天神)の怒りにふれるであろう」と記している。また、同町史でも比羅夫が内陸に侵攻したことが記されているが、これもまた、般若院英泉の『七座山天神縁起』を参考にしているものと思われる。

④能代市史通史編1◇原始・古代・中世(平成20年刊 能代市史編さん委員会 )
第二節 阿倍比羅夫の北征と能代 比羅夫の北征 
「比羅夫は船団を顎田の浦(現在の秋田湾沿岸に比定される)に連ねた」とあり、蝦夷の酋長の恩荷が降伏を申し出たことが記されているが、二ツ井町史や鷹巣町史のように、「顎田の浦神に誓う」ということや、この浦神が七座天神であることなどにも触れていない。

④図説 秋田県の歴史 昭和62年刊 塩谷順耳 田口勝一郎 冨樫泰時 松渕真洲雄 著 
「秋田城の時代 恩荷と出羽柵」
日本書記に阿倍比羅夫の北征が記されているとして、「比羅夫一行は顎田浦に停泊した。顎田浦が具体的にどこを指すかはっきりしないが、男鹿から雄物川河口付近までのあたりと考えてよいだろう」とある。恩荷が「顎田の浦神に誓って」と言うくだりはあるが、顎田の浦神についての具体的な説明は無い。 

⑤古代東北と渤海使 平成15年刊 新野直吉著(秋田大学学長) 
1古代東北の位置 陸奥と出羽 比羅夫の北航 
恩荷が「顎田の浦神に誓って国家に忠誠を尽くす」と言った記述があり、顎田の浦神については、「水軍提督の国守比羅夫も承認した秋田の『浦神』とは、いうまでもなく海浜の神である。」として、「恩荷から男鹿半島の神も考慮できるが、男鹿の神は本山・真山等山の神が中核であると認められるから、『浦神』には当たらないように考えられる。現在まで祀られる神社でいえば海浜に近く、しかも安倍氏の祖とされる大彦命を祭神としている古四王神社の原由となる神が一番当たっているものと考えられる」とある。ちなみに、この本には比羅夫が北航した経路が図で示されているが、地図には顎田や渟代、米代川の位置が記されているものの、比羅夫が米代川を上ったことは記されていない。

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⑥中学社会能代市 平成29年版 能代市教育委員会・能代市社会科研究会
⑤まで調べて、秋田県や旧能代市と、旧二ツ井町や旧鷹巣町では解釈が異なることが分かった。
これは、七座神社は二ツ井町にあり、七座神社のあった七座村は昭和30年代まで鷹巣町に組み込まれていたことや、鷹巣町にある綴子神社は七座神社の遥拝所としての役目もあったとのことで、こうした関係性から、旧二ツ井町や旧鷹巣町の解釈が同じであることは理解できる。
では、このことの解釈が分かれる旧能代市と旧二ツ井町が合併した今、新能代市はどのような立場を取っているのだろう、子供達にはどんな風に教えているのだろうかと、次女の中学校時代の教科書があったので見せてもらった。

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本書は市町合併(平成19年)の翌年に初版が発行され、ほぼ毎年改訂されてきた11版目(平成29年)。
次女はこの3月まで中学生だったから、市の資料としては一番新しいものと言える。
あとがきでは、本書の前身は昭和50年に作成された「中学社会能代市」とあり、旧能代市が作った本に、二ツ井の歴史が補足されたということだと思うが、ここには、『阿倍比羅夫と渟代』という項があり、日本書記の記述を紹介することに留めている。
この2ページ後には、阿倍比羅夫が元となっている能代七夕のトピックがあるが、これは、日本書記という「史実」と七夕の創始にまつわる「伝承」を区別しているということだろう。

このことについて発行元である教育委員会に出向き、「二ツ井町史や二ツ井町教育委員会の本では阿倍比羅夫が二ツ井に来たことが記されていて、比羅夫創建が記されている銀杏山神社や七座神社の看板を能代市教育委員会が建てている」ことについて、もしかしたら史実とは違うかもしれないが、二ツ井にそうした伝承があることは周知の事実なのだから、紙面で子どもたちにそれを知らせることぐらいはしてもよいのではないかという提案をし、改訂会議の際に意見として伝えるとのことだった。

⑦能代の歴史ばなし34(能代まちなかブログ「布晒沼と船繋ぎの欅」から)

「倫勝寺境内にあるケヤキの老木について述べます。むかしは今の能代から鶴形あたりまで海水が入り込み、東能代地区も仁井田の東まで入江になっていて、その岸に沿って3本の巨木がうっそうと茂っていたといいます。一番西はずれのケヤキは周囲10メートルもあり、今の新山(しんざん)神社境内にあったそうです。中央が倫勝寺のケヤキ、東はずれのサイカチの大木は、今の一本木の字名(あざめい)のもとになったようです。倫勝寺のケヤキは、現在は主幹が枯れて大きな樹皮の一部だけが生きて枝葉(えだは)が繁茂しています。これが「榊史話」で「二井田のコブ林」と紹介されているケヤキの現在の姿で、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が来たとき船をつないだと伝えられる老木です。」とある。
このケヤキは次女の自由研究(ケヤキのいろいろ)の際に取り上げた木でその後も何度か見に出掛けているが、あらためてこの記事を見ると、この頃は鶴形までが海であったとのこと。
鶴形と言えば茂谷山はすぐ近く、「天そそり立つ茂谷山」を望む「あいたの浦」は、もしかしたら鶴形湾?のことだったのかもしれないと、もし阿倍比羅夫が鶴形まで来ていたとしたら、切石、仁鮒、七座と川を上ってきたという話も多少の現実味を帯びてくる。


ということで、今回調べた資料は以上。
どれが正しいのかについては、今の私の知識力ではとても判断できない。
地元に住む者としては二ツ井、鷹巣町史を信じたいところだが、顎田の浦は秋田市の海辺で、顎田の浦の神はそこにほど近い古四王神社とするほうが自然だとは思う。

ここに挙げた資料は二ツ井図書館で閲覧できる。
まだまだ関連の資料はあり、新説もあるかもしれず、もしかしたら、七座神社と古四王神社の他にも顎田の浦の神を祀る所があるかもしれない。
今回の調査はこれで締めるが、面白い情報が入ったらお知らせしたい。
また、そうした情報をお持ちの方は、ご連絡いただければ幸いです。

長文ご精読、誠にありがとうございました。
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