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ふるさと

阿倍比羅夫北征における米代川遡航説について(県立図書館の文献から)

その後も折を見て図書館に寄り、阿倍比羅夫北征に関する文献を読んでいます。
今回は、秋田県立図書館で閲覧した本の中から関連する記事を書き残していきますが、最初にお断りをしておくと、表題とした『米代川遡航説』は、阿倍比羅夫が二ツ井町や鷹巣町に船で来たという説にこの名称が使われているわけではなく、米代川を「さかのぼって」七座や綴子に「到達した」という記述が歴史書等に散見されることから、単純に、「船で遡った」ということに対して『遡航』という熟語をあて、文の簡略化を図っただけのものです。
さて、では下記に記事を紹介していきます。
(長文となるため文体を変えます)
(文中の※は私の補足や注釈)
(文献の掲載は発行年順)

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1 「阿倍比羅夫が蝦夷平定 (秋田県広報誌>秋田の歴史ところどころ / 昭和49年)」

『翌年二回目の遠征で比羅夫は胆振金且(いふりさえ)、肉入篭(ししりこ)、問菟(という)、後方羊蹄(しりべし)まで軍を進め~」
『肉入篭という地名だが、江戸時代から今の北秋田郡鷹巣町綴子に比定する説が盛んに行われてきた(般若院英泉や菅江真澄の著書、さらに天樹院義和公の道中記にも記される)。したがって、『三代実録』にある蝦夷の大反逆ー元慶の乱(八七八)の賊地十二カ村の中に名が出てくる椙渕(すぎぶち)(阿仁中央部)はアイヌ語のシリペツ(河崖)の転訛で、後方羊蹄(しりべし)はこの椙渕のことであろうとする。そして問菟(という)は富根(二ツ井町)というのだ。 いずれも渟代から米代川をさかのぼった場所には違いたいが、日本海の荒波を越えた軍船が入れるはずはなく、最近の学説はそろって疑問視している。』
※文中、「渟代から米代川をさかのぼった場所には違いたいが」は「違いない」の変換ミスだと思われる。

〈感想〉
この間のブログ、『顎田の浦と顎田浦神(資料編)』に記載した二ツ井町史には、阿倍比羅夫が米代川沿岸の小賊を平定したことについて、「仁鮒の酋長ウポナは降伏したが、切石の酋長シリベシは頑強に抵抗し、遂に敗れて蝦夷地に逃げ落ちたと伝えられる。また比羅夫は七座では船一隻と五色の綵帛を献して顎田の浦の神を祀ったという。」と記され、「シリベシ」を「切石の酋長」としている他に仁鮒のことも出てきていたが、この記事で取り上げている『三代実録』ではシリベシを阿仁の「椙渕」だとし、驚いたことに、私が住む「富根」も『問菟(という)』という地名で登場している。
先に挙げたように、比羅夫の二回目の遠征で「胆振金且(いふりさえ)、肉入篭(ししりこ)、問菟(という)、後方羊蹄(しりべし)まで軍を進め」たことは日本書記にも出てくるが、三代実録が言うように阿倍比羅夫が富根にも来ているとなると、富根小学校の校歌に「あいたのうら(顎田の浦)」があることや、校歌の作詞者を輩出した富根の山本家が七座神社に由緒の石碑を寄進していることにも必然性が出てくる。

ただこの記事では、『日本海の荒波を越えた軍船が入れるはずはなく、最近の学説はそろって疑問視している。』と、「米代川遡航説」を否定している。
この記事はネットで見つけたものだが、記事には発行元が記されていないため、文末にある「秋田県教育庁文化課」という課名から秋田県庁の資料ではないかと推測、山本地域振興局に問い合わせてみると、この課は現在の「生涯学習課文化財保護室」の前身で、この記事は県の広報紙に掲載されたものだった。
公的な記事で具体的な否定を見たのは初めてだったことから、同課にその『学説』の出所を訊くと、執筆者が故人となっているため詳細は不明だった。
県広報は県立図書館にも保管されているため、閲覧資料としてここに載せる。


2 秋田県史 秋田県編集 昭和52年刊>第一巻 古代中世編>第三編 古代の秋田> 第一章 顎田と渟代> 第二節 阿倍比羅夫の蝦夷計略
『お肉入籠を地名の類似から北秋田郡綴子に(「大日本史」神祇志) 、また後方羊蹄を大館市に(日本地理資料)疑定する説もあるが、これは百八十艘の水軍の行動という点からしても無理なことは明らかである。』

〈感想〉
この記事は、前述の秋田県広報紙の3年後に発刊されているが、「肉入篭」を「お肉入籠」と表記している違いはあるものの、どちらも秋田県の編集ということでは、内容についての整合性はあると考える。
記事では百八十艘の水軍がそのまま川を上ることは「無理」としているが、現在の米代川を見れば、やはり難しいとは思う。
ただ、当時は鶴形まで海岸であったという話もあり、その250年後の915年には過去2000年間で国内最大規模と言われる十和田湖の大噴火があり、火砕流が米代川を覆い尽くしたと言われていることから、比羅夫が来航した時と今とでは、川の形態は大きく変わっているのではないかと思う。
またこの時の火砕流が八郎太郎伝説を表しているとの説もあり、この伝説が七座神社のある小繋地区に残っていることも興味深い。
記事中の、658年の比羅夫来航に関する日本書記の記述については、
「比羅夫の功業を讃えることにおいて首尾一貫しているが、内容の記述につじつまの合わないことがあるところから、越を本拠とした安倍氏を中心として伝承され、筆録された家記から採録されたものとされており、したがって内容に誇張や修飾があるものと考えられるが、少なくとも比羅夫の遠征が事実この時期に行われ、且つ、顎田・渟代・津軽地方の平定と郡領の定置が行われたものらしいことは、次のような同年紀七月四日の条によって明らかである。」とあり、当地の蝦夷の首領である恩荷が比羅夫に服従を誓ったり、蝦夷を集めて饗宴を開いたことなどは、多少盛っている部分もあるのかもしれない。


3 秋田の神々と神社 佐藤久治 著 1981年刊(昭和56年)
第二部 秋田の神社と武将や高僧> 第一章 古代開拓の武将と秋田の社寺 >3安倍比羅夫 >イ安陪比羅夫と関係ある社寺

『①七座山天神 二ツ井町小繋 659年に草創された天神社である。(※縁起に言うこととして)ここに安陪比羅夫が船を繋いだ   ので「小繋」という。
 ②銀杏山神社 二ツ井町仁鮒 阿倍比羅夫が東征のみぎり勧請する。
 ③八幡神社 能代市柳町 658年、征夷八幡として、海岸中島に鎮座する。
 ④熊野神社 山本郡八竜町鵜川 658年、阿倍比羅夫が大兵を引きいて鵜川に着し、エゾ征伐の勝利を祈願する(神社明細帳)

(※①~④の神社創建についての筆者のコメントは、各神社側に伝わる由緒や縁起を引用掲載していると思われる。)

>ハ秋田と阿倍比羅夫
『前述①②③④の阿倍比羅夫伝説は地域的にみて、その発生には妥当性がある』

(※下記は長文のため要点のみを抜粋する。)
第二回北征においての日本書記からの引用として、
『顎田渟代の蝦夷を簡集』し、『一所において大饗し禄を賜う。即ち船一隻を以て、五色綵帛をなし、彼地神を祭りて肉入籠(ししりこ)に至る。』としながら、筆者のコメントでは、
『「肉入籠」が鷹巣町の綴子(つづりこ)とすることに二論がある。』として、
『是とする説は、①肉入籠を綴子に擬する。(大日本神祇志) ②肉入籠 野代の東に綴子村あり蓋し是。(国郡志) 』
『非とする説は、『翌六年三月記には二百艘をもって粛慎国を討っている。胆振金且(いふりさえ)にしても肉入籠、後方羊蹄(しりべし)にしても渟代・津軽の北である。”今もし肉入籠をもって野代(のしろ)の山中 火内(ひない)の峡口に擬すれば、一百八十隻の船師は米代川をさかのぼりて津軽海に出でたりとなさざるおえず。舟を山に行る。何等の空辞ぞ。(吉田東伍 大日本地名辞典)』
この非とする説について筆者は、
『吉田東伍説は感情的な否定論である。百八十艘の船団を代表して満艦飾をした一艘が、米代川を北上して、地主の神に敬意を表することは、事実として受け取れる。これは古代から武将が人心を収攬する方法である。「彼地神」とは七座天神をさす。』
としている。

〈感想〉
本書は秋田県史の4年後に発刊されているが、内陸の米代川流域にある七座山天神と銀杏山神社、海岸部にある八幡神社と熊野神社の発生について、阿倍比羅夫伝説を「妥当性がある」としている。
そして、「肉入籠」を鷹巣町の綴子とすることに『二論がある』とし、『是』とする説の引用に「大日本神祇志」を挙げているが、②の秋田県史でもこの資料を取り上げて大船団での遡航は不可能としていることに対して、『百八十艘の船団を代表して満艦飾をした一艘が、米代川を北上して、地主の神に敬意を表することは、事実として受け取れる。~「彼地神」とは七座天神をさす。』としているように、大船団ではない船が米代川を遡航し、七座神社に来たことについては肯定の立場を取っている。
満艦飾は祝意を示すものであることを思うと、比羅夫は侵略や討伐というよりも友好関係を結ぶことを目的としていたような、あるいは、すでに恭順の意を示している蝦夷に対しての敬意という意味を、筆者は「満艦飾」という言葉を使って表したのだろうか。


4 般若院英泉の思想と行動 長谷部八朗・佐藤俊晃 編著 2014年刊
第一部 論攷編>第二章 英泉における七座天神宮祭祀説の変化>五 七座天神宮縁起

※本項では、般若院英泉が1776年に記したとされる七座天神宮縁起を原文で記し、著者がその内容を現代語で要約しているが、その中から関係個所を下記に抜粋する。

『(1)日本書記巻二十六の引用。斉明天皇四年、阿部臣、百八十艘の舟を率いて蝦夷討伐のため齶田(秋田)、渟代(能代)に至る。蝦夷恩荷これに反抗しないことを誓う。同五年、阿部臣は飽田・渟代・津軽・胆振金且の蝦夷に禄を与え、肉入籠に至り、地元の蝦夷に後方羊蹄を政所とすべきことを告げる。』
(※文中、秋田のことを「齶田」、「飽田」と二つの表記をしているが、これは原文のまま記載)

『(2)日本書記の記述によって七座山天神宮が上古より鎮座していたことは明らかで、阿部臣が着いた肉入籠とは綴子のことである。』

『(1)(2)は日本書記斉明天皇紀の記述をもとに、これが七座山、綴子を舞台にしてのことであると述べ、以て七座山天神宮の歴史的権威を標榜しようというくだりである。この伝承は現在も地元では由緒ある古伝として信じられてはいるが、今のところ英泉の縁起に先行する傍証資料を見出しえない。』
※またこの文に続いて著者は、英仙の師の「宮野尹賢」の書を挙げて、子弟の関係性から、
『(1)(2)の発想は尹賢より得ていることも考えられる』
としている。

〈感想〉
今回調べた4冊の中で、本書は平成26年の発行と一番新しく、タイトルにもなっている般若院英泉は阿倍比羅夫の米代川遡航を唱えた人物と言われる。
英泉が作成した七座天神宮縁起では、『阿部臣が着いた肉入籠とは綴子のことである』として、阿倍比羅夫の北征に『七座山と綴子』を加えることで、『七座山天神宮の歴史的権威を標榜しようと』する狙いがあったことを記している。
また、『英泉の縁起に先行する傍証資料を見出しえない。』としつつ、英泉の説は師である宮野尹賢の影響を受けていることを推察しているが、2の「秋田県史」や3の「秋田の神々と神社」では、江戸時代に徳川光圀が着手した「大日本史」(1657年に編纂を開始、1906年に完成)の中の「神祇志」(1893年刊)でも『肉入籠を北秋田郡綴子に疑定する』と記している。
般若院英泉による「七座山天神縁起」は1766年の作成で、英泉はこの縁起作成以前に京都や江戸に数回出掛けているという。
この頃、神祇志はまだ完成していないが、1の「秋田県広報誌 秋田の歴史ところどころ」で触れている、 「富根」を『問菟(という)』とする日本三代実録(901年)にどこかで触れる機会があったとすれば、それが縁起の元になったという可能性もあるのではないか。などと、昔の文献をどこでどのように閲覧できたのかもわからないが、そんな想像もしている。
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以上、まだまだ関係資料はあるかもしれませんが、今回はここまで。
それにしても古語の写しは大変。
学生時代の卒論作成を思い出しましたが、考察できるほどの知識が無いのが残念です。
長文ご精読、誠にありがとうございました。

※関連のブログ記事⇒『顎田の浦と顎田浦神(資料編) 2020・8・15 』
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