『対』からの景色
2023年06月04日

ミルハス前の大ケヤキの下に立つと、ケヤキの枝とツツジの間から県立美術館が見える。
大ケヤキの『対』として植えられた美術館のケヤキたちは、高さを「対」にすることは許されず、植え替えが検討されることになった。
数年後には違った景色になっているだろうから、ここから見る景色は今が見納めかもしれない。
高木が無くなると、さほど高くない四角い箱がより目立ち、建築の硬さが助長される。
館周りには木蔭ができなくなり、夏場は暑くて、この広場にはいられなくなるだろう。
緑には様々な効果があるけれど、ここではあまり必要とされていないようだ。
この仕事をしていると、ご高齢の方から高木処分の相談をいただく。
ご近所や、家を引き継ぐ子供たちに迷惑が掛からないよう、ご自分たちで維持しやすいよう、低木のみの庭に変えたいという要望だ。
それも庭の宿命であり、それで安心が持てるのであればと協力はするが、美術館の木々はまだ若く、利用者も若年層が多い。
誤解を恐れずに言うと、若い世代の活躍の場でもあるこの施設が、終活の庭のようになってしまうことに違和感を覚えている。
なんだか、「秋田=高齢県」をイメージさせるからだ。
ケヤキが他の場所で元気になれることを嬉しく思いつつも、緑と共存できない建築芸術の傲慢を感じてしまう。
植木屋の立場から言うと、緑は建築の添え物ではなく、共にあるものだ。
建築が上に立つことは、人間が自然を下に見ているようで好きになれない。
館の対岸は城跡。
城を守るために堀を作り、掘った土で土塁を盛って木を植える。
そんないにしえの知恵と技術で、木々は大木に育った。
知と技が本物だから木が育つのだ。
四百年前からいるこのケヤキたちは、現代人の所業をどう見ているだろう。
根元に立って対岸を見下ろすと、そんな思いが湧いてくる。

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