腕の前にあるもの

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今朝の北羽新報に、作庭展のレポートが掲載された。
文末は、先月、東京で聞いてきた「腕前」の話で結ぶ。
「腕前」とは「腕の前にあるもの」の意。
庭への思いや哲学、使命感、心構えなどのレベルを表すものといえばわかりやすいだろうか。
この話を聞いた時、寒気がするほどの感動を覚えた。
これまで自分が大切だと考えていたことでもあったので、自分の中でストンと落ちていった。
庭師でなくても、この話が落ちる人はきっといるはず。
地元の人たちにも、この感動を伝えたいと思った。
「腕前」を辞書引きすると「技術」や「技量」と出てくる。
自分もついこの間まではそう思っていた。
技術は大切だ。
技術が無ければ庭は作れない。
しかし、技術だけでは庭は創れない。
見習時代、「技と心は両輪。技量と器量が揃って一人前。」と教えられた。
では、技と心、どちらが先にくるのか。
自分は、技術は後から付いてくるもので、見習い時代に学ぶべきは心や気遣いだと思っている。
技を深めたいという強い心が育たなければ心のこもったモノは創れないし、人や自然に感謝できる心が無ければ、職人以前の「人」になれないと思うからだ。
器量は人としての器の大きさ。
技が深まれば深まるほど、人としての器も大きくなり、心も深まっていくように思う。
「人格以上の庭はつくれない」といわれる由縁は、こんなところにあるのではないかと思う。
「技」と「技術」は混同されがちだが、技術という言葉にはあまり心を感じない。
何か機械的で冷たいイメージがする。
庭師は造園技術者ではなく庭の技を持つ者。
この仕事を「なりわい」にはするけれど、「業」ではなく「技」を持つ人ではないかと思う。
後ろに「者」を付けるとわかりやすいが、業の人は業者、技の人は技者、庭師はやはり後者であるべきだ。
金を稼ぐためだけに仕事をするのでは心が貧困。
心が豊かでなければ、いい庭師にはなれないのではないかと思う。
「技」は「手」へんに「支える」と書く。
手とは何か、腕の前にあるものだ。
「手入れとは心を入れること」というように、手は心の意味を持つ。
「手のひら」のことを「たなごころ(掌)」とも言うが、手はやはり心を表わすもので、心で支えられたものが技で、技を支えるものは腕の前にあるもの、ということかもしれない。
東京でお会いした安諸定男さんが強く言っておられたのが「庭師の底力」。
ご本人ともお会いし、実際の庭を見せていただいて感じたことは、底知れぬ技と人間力の持ち主だということ。
庭も人も、深すぎて底が見えなかった。
記事の最後には県内作庭者との交流の場をつくったことも書いたが、これは、安諸さんの個展に集まった全国の作庭者の皆さんとの話がとても楽しかったから。
集まった人の皆が皆、庭が好きでたまらないという顔をしていた。
腕の前にあるものの根底には、「庭が大好きでたまらない」という気持ちもあるだろう。
これからも、心底、腹の底から庭を好きでいたい。
腹の底から庭の話の出来る人、楽しく、クソ真面目に庭の話が出来る人が、秋田にももっといるはずだ。
そんな人と会えたら、底無しに楽しく、底無しに酒が飲めることだろう(笑)。
そんなことを、今夜も酒の底で思った。
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