fc2ブログ

秋田県能代市で作庭を行う福岡造園のブログです。 日々の仕事や活動等の最新情報を載せていきます。

腕の前にあるもの

2010年07月14日
メディア掲載記事 6
IMGP8033.jpg
(クリックで拡大できます)

今朝の北羽新報に、作庭展のレポートが掲載された。

文末は、先月、東京で聞いてきた「腕前」の話で結ぶ。
「腕前」とは「腕の前にあるもの」の意。
庭への思いや哲学、使命感、心構えなどのレベルを表すものといえばわかりやすいだろうか。

この話を聞いた時、寒気がするほどの感動を覚えた。
これまで自分が大切だと考えていたことでもあったので、自分の中でストンと落ちていった。
庭師でなくても、この話が落ちる人はきっといるはず。
地元の人たちにも、この感動を伝えたいと思った。

「腕前」を辞書引きすると「技術」や「技量」と出てくる。
自分もついこの間まではそう思っていた。
技術は大切だ。
技術が無ければ庭は作れない。
しかし、技術だけでは庭は創れない。

見習時代、「技と心は両輪。技量と器量が揃って一人前。」と教えられた。
では、技と心、どちらが先にくるのか。
自分は、技術は後から付いてくるもので、見習い時代に学ぶべきは心や気遣いだと思っている。
技を深めたいという強い心が育たなければ心のこもったモノは創れないし、人や自然に感謝できる心が無ければ、職人以前の「人」になれないと思うからだ。

器量は人としての器の大きさ。
技が深まれば深まるほど、人としての器も大きくなり、心も深まっていくように思う。
「人格以上の庭はつくれない」といわれる由縁は、こんなところにあるのではないかと思う。

「技」と「技術」は混同されがちだが、技術という言葉にはあまり心を感じない。
何か機械的で冷たいイメージがする。
庭師は造園技術者ではなく庭の技を持つ者。
この仕事を「なりわい」にはするけれど、「業」ではなく「技」を持つ人ではないかと思う。
後ろに「者」を付けるとわかりやすいが、業の人は業者、技の人は技者、庭師はやはり後者であるべきだ。
金を稼ぐためだけに仕事をするのでは心が貧困。
心が豊かでなければ、いい庭師にはなれないのではないかと思う。

「技」は「手」へんに「支える」と書く。
手とは何か、腕の前にあるものだ。
「手入れとは心を入れること」というように、手は心の意味を持つ。
「手のひら」のことを「たなごころ(掌)」とも言うが、手はやはり心を表わすもので、心で支えられたものが技で、技を支えるものは腕の前にあるもの、ということかもしれない。

東京でお会いした安諸定男さんが強く言っておられたのが「庭師の底力」。
ご本人ともお会いし、実際の庭を見せていただいて感じたことは、底知れぬ技と人間力の持ち主だということ。
庭も人も、深すぎて底が見えなかった。

記事の最後には県内作庭者との交流の場をつくったことも書いたが、これは、安諸さんの個展に集まった全国の作庭者の皆さんとの話がとても楽しかったから。
集まった人の皆が皆、庭が好きでたまらないという顔をしていた。

腕の前にあるものの根底には、「庭が大好きでたまらない」という気持ちもあるだろう。
これからも、心底、腹の底から庭を好きでいたい。
腹の底から庭の話の出来る人、楽しく、クソ真面目に庭の話が出来る人が、秋田にももっといるはずだ。
そんな人と会えたら、底無しに楽しく、底無しに酒が飲めることだろう(笑)。
そんなことを、今夜も酒の底で思った。
関連記事
FUKU
Author: FUKU
福岡造園HOME
福岡造園のfacebookページ

五感で楽しめる暮らしの庭、創った庭から民謡や童謡が聞こえてきそうな、土地の風土と共にある庭を目指しています。

※記事中の写真や図の二次使用はご遠慮ください。

Comment(6)

There are no comments yet.

紅の葉

すずちゃんさんへ

記事を見ていただいてありがとうございます(^-^)。
「あ~良いなあ」、そう言っていただくことが一番嬉しいですね。私たちの世界ではよく「上手い庭と良い庭」の話をします。同業からは「この部分、上手いね」とか「上手く収めたね」なんて言われると、同じ作り手だから解る苦労を察してもらえて嬉しいです。反面、一般の方々から「良いね」と言われると、部分ではなく全体の雰囲気を見てくれているようで、これもまた嬉しいのです。「上手い」は技術を目で見た評価で、「良い」は空気を心で感じたことではないかと思うのですが、庭は毎日暮らす所なので、「良いなあ~」と感じていただけるのが一番幸せです(^-^)。
「挑戦」、庭の可能性のため、自分の可能性のため、まだまだやってみたいことはたくさんあります。もしかしたら死ぬまでこんなことが続くのかもしれませんが、これが私の波動、生きている証なのかもしれません(^-^)。
何事も、やってみなければわかりません。やらなければ後悔しますし、失敗したら次に活かせばいいぐらいの気持ちです。
今回のこと、また次に繋げていきたいと思います。

2010/07/18 (Sun) 19:15

すずちゃん

今朝、ようやく拝読させていたしました。

紅の葉さんの記事にどんどん惹きつけられて行きました。依頼主はなく、ご自分の考えひとつで挑戦なさった今回の展示会は勇気がいる挑戦だった事と思います。「境界」の発想、面白いと思いました。紅の葉さんの今回のお庭を、近くの風景と馴染ませたような?発想も素晴らしいと思いました。

お庭造り、、と言うのは専門家のなさるお仕事ですが、何もわからない素人の私達が拝見して、『あ~、良いなぁ。』と感じることが、「合格」ではないでしょうか。うまい言い方が見つからないのですが。。。

なんとなく無意識のうちに、昔から刷り込みされている、私達の美意識みないなものがあるように思います。
『いいなぁ。』と感じる気持ち。反対に、『なんか違和感があり落ち着かないなぁ。』と感じる気持ち。それは一人一人違うものかもしれませんが。

これからも、いろいろな紅の葉さんの挑戦、楽しみにしております。

2010/07/18 (Sun) 11:08

紅の葉

すずちゃんさんへ

こんばんは^^。
「波動」という言葉には、生きていること、命の息吹を感じますね。波は静かな時もあれば動く時もあり、ひとたび動けば岩をも砕く。意思を持って人が動く時の力は周囲に波動となって伝わり、意思の媒介となる道具にも人の魂が宿るということでしょうか。そして、そんな心の入った仕事が感動を呼ぶのではないかと思いました。

お姑さんの暮らしぶりをお聞きし、修行僧のようだと思いました^^。なかなか出来ないことだと思いつつ、でもお姑さんにとってはそれが当たり前のことなのでしょうね。職人は、自分の当たり前のレベルを上げるために日々修行するのだと思いますが、その「当たり前」をどこに置くかで仕事への臨み方や生き方が変わり、腕前のレベルも変わってくるようです。私も毎朝、神棚と仏壇に手を合わせていますが、これもやはり祖母の影響です。手を合わせている時など、時々、保育園の次女が隣に来て真似をしますが、こんなふうに、次代へと繋がっていくのかなと思います。でも、私の場合、仕事の時間が早い時など、バタバタと義務のようにこなしている時などもあって反省です。落ち着いて手を合わせ、その日の安全を祈り、神様仏様に感謝の気持ちをお伝えしなければならないと反省であります。

>転覆したような気もしますが
波の話だけに、お後がよろしいようで^^。

2010/07/18 (Sun) 01:25

すずちゃん

またまた紅の葉さんのお返事に応答させてもらいます(笑)ここ2.3年、好んで読む本は「波動」と言う言葉の出てくる本です。宗教、と言うことでもないのですが、すべてに「波動」があると言う考えに賛同したくなります。人物も、お花も、そして無機質であるはずの、道具、機械にも「波動」=「意思」、それが存在すると言うのです。
庭師さんの使われる道具には、まさに職人さんの心が通って命が吹き込まれて行くようにも感じます。

さて、修行、と言う言葉で、同居している義母を思いました。82歳で、私にとっては厳しいお姑さんでした。このお姑さん、毎朝6時、定時に仏壇のリンが鳴ります。そして6時半には家の中に掃除機をかけます。玄関も掃いて水をまく。私が8時に家を出る頃は、家の掃除が終わっています。それが毎日のことで「修行」と言う言葉がふさわしいかも知れません。
53才になってから仕事をするようになったのですが、もしかしたら職場で勤めていれるのも、このお姑さんの厳しさがあったからではないか、と思うこの頃です。
話が転覆したような気もしますが、人生には、いろいろな形の「修行」があるのだと感じるこの頃です。
紅の葉さん、いつも良いお話、ありがとうございます。

2010/07/16 (Fri) 23:15

紅の葉

すずちゃんさんへ

こんばんは^^。
新聞にも書きましたが、作庭展の庭で試みたことに「エコとエゴの境目」というのがありました。
記事では書ききれなかったのですが、人は自然に生かされているということを伝えたいと思いました。
鈴ちゃんさんのブログは「自然とともに生きている」ですが、もしかしたら私は、今回つくった庭を通して、そんなこと伝えたかったのかもしれないと、鈴ちゃんの話を聞いていてそう思いました。

職人の修行は厳しいですが、鍛冶屋さんが鉄を打つことに似ています。
焼きを入れ、叩いて叩いていい鋏ができる。
よく職人のことを「叩き上げ」といいますが、まさにそうで、技術を技に昇華させるために、心を叩き込む期間が修行時代ではないかと思っています。
我々植木屋は、鍛冶屋さんが精魂込めてつくった鋏で、木に心を入れていきますが、人と同じように、道具にも素材にも心が通うといいモノができるように思います。
モノ・コトに心を通わせるのが、我々職人の仕事なのかもしれませんね。

庁舎で手入れをされていた植木屋さんも、鈴ちゃんさんに声を掛けてもらって嬉しかったことでしょう。
仕事をしていて道行く人に声を掛けられるのはとても嬉しいものですね。
私も、声を掛けていただいことに感謝し、笑顔でお返しすることを忘れずにいたいと思います^^。

2010/07/16 (Fri) 21:07

すずちゃん

北羽

紅の葉さん、こんばんは。
北羽に紅の葉さんの記事が掲載されてるのを見て嬉しくい思いましたが、まだ、ゆっくりと読むことができずに新聞をとってあります。
ここで概要を読ませて戴きましたが、私も心惹きつけられるお話です。
人間は、やはり心の存在だと思うので、どんな素晴らしいものであってもそこに『心』が入らないと冷たく感じられるものではないでしょうか。それはきっと、全てにおいて。

今日、4庁舎へ歩いて行くと、街路樹がきれいに整列してて気持ちよかったです。お庭の剪定をしてくださっている業者さんがいらっしゃって「ご苦労様です。」とご挨拶しました。職人さんは、にっこり笑顔を返してくださいました。

雨が降ってきました。あまりひどくならないと良いですね。。。

2010/07/15 (Thu) 23:39