植木屋は食わねど
「武士は食わねど高楊枝」ということわざがある。
「武士は、たとえ貧しくて物が食えなくても、食べたようなふりをして楊枝を使う」という意味なのだそうで、一般的にはよく、やせがまんの例えとして使われるようだ。
しかし、この言葉にはもっと深い意味があるとのこと、「武士は貧しても不義、不行を行なわない」という、清く正しいことを重んじる日本人の美徳を表す言葉なのだそうだ。
これは案外、我々植木屋の仕事にも当てはまる。
時々、庭の改修や手入れをお願いされて見に行くと、出入りの植木屋さんがいる場合や、その庭を手掛けた植木屋さんがずっと手入れをされている場合がある。
このような依頼をいただいた時は、声を掛けていただいた方に対して報いたい気持ちと、同じ仕事に携わる者として、その庭を作られた方や、管理を引き継がれている植木屋さんに対して仁義を通したい気持ちとの間でいつも苦しむ。
植木屋が手掛けた庭や木には、施主の夢とともに、手を入れた植木屋の思いや愛情もこもっている。
自分が作った庭ならなおさら、途中から引き継いだ庭でも、思いを持って手を入れている庭は、我が子同様に可愛いものだ。
自分が逆の立場になった場合のことを考えると、たまらなく悲しい。
人が作った庭を引き継ぐには相当な覚悟が要る。
以前、自分が手がけた雑木の庭に他の植木屋さんが入り、丸刈りにされてしまったことがある。
数年後の樹形再生を描き、透かしに直している途中の木をブツ切りにされたこともある。
本当にむなしい、悲しい思いを何度も経験した。
誰に仕事を頼むかは依頼主の自由ではあるけれど、後から庭に入る者は、この庭がどんな思いや理想の元につくられたものであるか、この庭の木がどんな役割を持ち、何を目的として手を入れられているものであるか、それを察する努力をすることが務めだと、常々そう思っている。
事情があってその庭を引き継ぐ場合など、そんなことが、先人への敬意や仁義を通すことになると、自分はそんなふうに考えている。
生き馬の目を抜く現代、なんとも時代遅れの古臭い植木屋だなと、自分でもそう思う。
修業時代、職人には礼節や仁義が大切だということを学び、今でもそれを守っている。
だから、相当な事情が無い限りは、出入り業者のいる仕事は受けない。
知らずに受けてしまった場合なども、それなりの筋を通す。
それは、職人や見習いの雇用についても同じで、相手先への仁義は必ず通すようにしている。
先日もそんな手入れの話があり、手の違いが仕上がりや金額に現れることをお話しして、思いを持って庭をつくられた出入りの植木屋さんに依頼してくださるようにお願いをした。
自粛自粛で仕事の薄い時期ではあるけれど、せっかくお声掛けいただいた仕事を受けたい気持ちはあるけれど、やはり植木屋の仁義は通したい。
植木屋は食わねど高楊枝。
仕事の奪い合いの世の中で、誇りよりも金の仁義なき戦いの世の中で、この高楊枝が信用となることは少ない。
仁義を通しているつもりが仕事を選んでいると思われることもあるし、逆に自分の仕事が取られている時もある。
どんな仕事でも受け入れる寛容さを信用としていくべきか、どんな仕事でも引き受けて利益を上げていくべきか、貧乏植木屋はいつも悩むが、やはり高楊枝を捨てることができないでいる。
職人としてはそれでよくても、経営者としては甘い。
甘いが、職人としての筋を通さなければ、自分は職人として生きていくことはできないし、植木屋の良心や誇りを捨てなければならなくなる。
捨てる神あれば拾う神あり。
せっかくのありがたい仕事を捨てているのは自分の方かもしれないが、不思議なことに、こんな時に限って、「貴方だから庭を頼みたい。」と言って下さる方が現れる。
本当にありがたい。
植木屋の誠意と心意気を持って、全身全霊、全力でお応えしたいと思う。
「武士は、たとえ貧しくて物が食えなくても、食べたようなふりをして楊枝を使う」という意味なのだそうで、一般的にはよく、やせがまんの例えとして使われるようだ。
しかし、この言葉にはもっと深い意味があるとのこと、「武士は貧しても不義、不行を行なわない」という、清く正しいことを重んじる日本人の美徳を表す言葉なのだそうだ。
これは案外、我々植木屋の仕事にも当てはまる。
時々、庭の改修や手入れをお願いされて見に行くと、出入りの植木屋さんがいる場合や、その庭を手掛けた植木屋さんがずっと手入れをされている場合がある。
このような依頼をいただいた時は、声を掛けていただいた方に対して報いたい気持ちと、同じ仕事に携わる者として、その庭を作られた方や、管理を引き継がれている植木屋さんに対して仁義を通したい気持ちとの間でいつも苦しむ。
植木屋が手掛けた庭や木には、施主の夢とともに、手を入れた植木屋の思いや愛情もこもっている。
自分が作った庭ならなおさら、途中から引き継いだ庭でも、思いを持って手を入れている庭は、我が子同様に可愛いものだ。
自分が逆の立場になった場合のことを考えると、たまらなく悲しい。
人が作った庭を引き継ぐには相当な覚悟が要る。
以前、自分が手がけた雑木の庭に他の植木屋さんが入り、丸刈りにされてしまったことがある。
数年後の樹形再生を描き、透かしに直している途中の木をブツ切りにされたこともある。
本当にむなしい、悲しい思いを何度も経験した。
誰に仕事を頼むかは依頼主の自由ではあるけれど、後から庭に入る者は、この庭がどんな思いや理想の元につくられたものであるか、この庭の木がどんな役割を持ち、何を目的として手を入れられているものであるか、それを察する努力をすることが務めだと、常々そう思っている。
事情があってその庭を引き継ぐ場合など、そんなことが、先人への敬意や仁義を通すことになると、自分はそんなふうに考えている。
生き馬の目を抜く現代、なんとも時代遅れの古臭い植木屋だなと、自分でもそう思う。
修業時代、職人には礼節や仁義が大切だということを学び、今でもそれを守っている。
だから、相当な事情が無い限りは、出入り業者のいる仕事は受けない。
知らずに受けてしまった場合なども、それなりの筋を通す。
それは、職人や見習いの雇用についても同じで、相手先への仁義は必ず通すようにしている。
先日もそんな手入れの話があり、手の違いが仕上がりや金額に現れることをお話しして、思いを持って庭をつくられた出入りの植木屋さんに依頼してくださるようにお願いをした。
自粛自粛で仕事の薄い時期ではあるけれど、せっかくお声掛けいただいた仕事を受けたい気持ちはあるけれど、やはり植木屋の仁義は通したい。
植木屋は食わねど高楊枝。
仕事の奪い合いの世の中で、誇りよりも金の仁義なき戦いの世の中で、この高楊枝が信用となることは少ない。
仁義を通しているつもりが仕事を選んでいると思われることもあるし、逆に自分の仕事が取られている時もある。
どんな仕事でも受け入れる寛容さを信用としていくべきか、どんな仕事でも引き受けて利益を上げていくべきか、貧乏植木屋はいつも悩むが、やはり高楊枝を捨てることができないでいる。
職人としてはそれでよくても、経営者としては甘い。
甘いが、職人としての筋を通さなければ、自分は職人として生きていくことはできないし、植木屋の良心や誇りを捨てなければならなくなる。
捨てる神あれば拾う神あり。
せっかくのありがたい仕事を捨てているのは自分の方かもしれないが、不思議なことに、こんな時に限って、「貴方だから庭を頼みたい。」と言って下さる方が現れる。
本当にありがたい。
植木屋の誠意と心意気を持って、全身全霊、全力でお応えしたいと思う。
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