杜の木漏れ日

ARTICLE PAGE

つくり手知らずの庭

いつもは、「雪国秋田の庭をつくる」をモットーに仕事をしている。
ある時、そんな私に海外から露地の設計依頼があり、秋田の庭をつくると公言している自分になぜ?と思った。
露地なら、本場の京都の庭師に頼むこともできるのに、とても有り難いことだった。

でも、行ったことも無い土地の、気候も風土も言葉も違う土地の庭をどうやってつくればいい?
しかも、それを自分の手でつくることはできない。
文化も価値観も違う現地の施工者に、どうやって日本の庭のつくり方や心を伝えることができるのか。

悩んだあげく、現地の自然や庭、施工者の技術などを教えてもらい、土地の施工者がつくれる庭を考えた。
そして、現地の素材と似た雰囲気を持つ素材で実際に庭を仮組み、その写真を送った。

露地には、蹲踞や灯ろう等、日本製の石造品が不可欠と思われがちだが、それに縛られる必要は無い。
水が溜まれば水鉢になるし、水鉢が無くても、水をすくえれば蹲踞になる。
柄杓が無ければ手ですくえばいい。
それだけのことだ。

日本から材料を送らなくても、現地の民具を代用することはできる。
敷地から出る石や土を使い、それで足りなければ、土地に転がっている素材を使うことを勧めた。

お茶で大切なのは「見立て」の心。
見立ての心を持っていれば、海外でもどこでも、日本の庭をつくることはできる。
お金を掛けて日本の材料を持ちこみ、伝統の形をつくることが日本庭園ではないと思っている。

大切なのは、形や材料ではなく心。
日本の庭の心があれば、その地にふさわしい形が自然と生まれてくるはずだ。
そんな心こそ、日本が世界に誇るべきもので、それが海外に日本の庭をつくることだと思っている。

何も無くても、知恵と工夫があればなんとかなる。
何も無いようでいて、そこに何かを見つけようと思えば見つけられる。

あの震災の時、流通がすべて止まり、仕事ができなかった。
その時感じたのが、他所から取り寄せなければ庭をつくれないのかという情けなさ。
土地の素材でつくという、本来の庭のあり方に戻らなければと感じた。

ここ数年で、そんな経験をした。

そして今回の山形での庭づくり。
県外での作庭は初めてだけれど、この時の経験が生きた。
どこに行っても秋田形式の庭をつくるのではなく、その地その家のもので庭をつくればいい。
それが自分の庭づくりだ。

そして、秋田から来た植木屋が庭をつくったという痕跡を消す。
つくり手の技や思いは見せず、家族の思いを表に出す。
誰がつくったかなどどうでもいい。
つくり手の存在や思いは、その庭に残らなくてもいい。
家族に愛される庭が残ればそれでいい。
主役は家族で、庭はつくり手ではなく家族のもの。

読み人知らずの歌が残るように、つくり手知らずの庭になれば嬉しい。

Comments 0

Leave a reply