杜の木漏れ日

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市議会の「泥縄」発言に思う

先日の地元紙に、議員の不適切発言により、能代市議会が紛糾したとの記事がありました。
大型七夕に多額の税金を投入することを質した一般質問の中で、今後、大灯籠を二基三基と作り、展示施設の建設も検討する市当局に対して、議員さんが「泥棒を捕まえて縄をなっている」との表現を使ったことに、市長さんが「泥棒とは何事だ!」と机を叩いて激高されたとのこと。

「泥縄~」の言葉の意味を知らなかったので調べてみると、「泥棒を捕らえて縄を綯う」ということわざがあり、一般的には「泥縄」と略して使われることが多いようです。(これは聞いたことがある)。
泥棒を捕まえてから慌てて泥棒を縛るための縄を作っつていたのでは遅く、泥棒を取り逃がしてしまう。
後手になったり、その場しのぎな政治や経営などに対して使われるそうで、「泥縄状態」とか「泥縄式」という言葉はよく聞きます。
こうした意味を考えると、この議員さんの発言は、昔からある故事を引用しただけのことで、「不適切」というほどのものでもないように思います。
現場の状況はわかりませんが、このことだけを見ると、市長さんも、机を叩いて怒るほどのものではないように感じました。

今夏に行われた大型七夕では、運行の支障になるとして、国道を曲げてまで保存した樹齢二百年の大ケヤキの街路樹の枝を大幅に切り詰めました。
この時、地元紙に投書して当局の真意や経緯を問うたところ、「当初、大灯籠は枝に障らないと思っていたら、春になり芽が出てきたら障ることがわかり、一部の枝を最小限に剪定した」というような返事が掲載されました。
葉のついていない状態でも、目視でもどれだけ枝が伸びているかは、普通の視力を持っている人なら誰でもわかることです。
今回は一車線分ぐらいの長さの枝が切られましたが、そんなに枝が触るのにそれがわからなかったというのはあまりにもお粗末で、真剣味が足りない。
このようなドタバタした進め方を見ていると、大型七夕の計画は「泥縄」と言われてもしかたないのではないかと、この議員さんの表現は適切だと、私は思います。

しかし、枝が切られた時、この後の市議会質問で質す議員さんは一人もおらず、とてもやりきれない思いをしたことが思い起こされます。
大型七夕の運行直前に、地元紙に投稿、次回市議会での議論を求めましたが、議会関係の記事や議会だよりを見ても、反応は無かったようです。
けやき公園が残された当時の思いを知る議員さんは、きっと能代にはいないのでしょいう。
この街路樹たちの存在はとてつもない価値があり、日本一の街路樹であることを市も議会も知らない。
市役所のすぐ隣にある、議事堂の真ん前にある木々が、日本の宝であることに気付いていない。
けやき公園の横を通る天空の不夜城の写真を見た時、私は、ご神木の枝をへし折って進むバベルの塔に見えました。
能代は、祭り騒ぎのために、大切な木を切った。
こんなことをしていたら能代は信用を無くし、全国の笑いものになるのではないかと心配しています。

この時の市議会を傍聴してきましたが、もし議会で市民の発言が許されるのなら、机を叩いて市長や市議会を叱りたかった。
能代が自分で残した貴重な木々を、なぜ能代は守らない。
なぜ能代市民は声を上げない。
そんなことに、私は大きな違和感を持っています。
きっと、そんなことを忘れさせてしまうほどの魅力が、この大型七夕にあったということなのかもしれません。

「泥縄」をさらに調べると、「『泥縄』というとマイナスイメージが大きいが、逆転の発想で『泥縄』を推奨する考え方も出てきている。」とのこと。
とにかく動く。まずやってみる。動きながら考え、必要なら軌道修正する。
よく言えば、柔軟な思考で臨機応変に対処するということでもあると思います。
市民投稿などでも、大型七夕の計画そのものが無駄だと指摘されていますが、私は無駄だとは思わない。
無駄にしないやり方を考えればいい。

だから、貴重な木の枝を切ったことを無にしないためにも、緑を保全するシステムを能代に作ってほしい。
具体的には、保全区の指定や緑の審議会、条例等の設置です。
道路事情で衰退した百年前の大灯籠をそのまま再現するのではなく、現在の道路状況に即した形に進化させるなど、貴重な緑の景観と共生できるやり方を考えてほしいのです。
そう知れば、この大型七夕のは諸手を上げて賛成し、見にも行きたい。
ご関係の方々には、無駄にしないやり方を、動きながらでもいいので、考えていただきたいと思っています。

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※写真は、切られる前の街路樹。

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